楽しいさん、お久しぶりです!
そうなんですね、今年クリスチャンになられたのですね!
いつも、熱心に探求なさってるのを感じます。
イエス様と出会えたこと、心から、おめでとうございます(^^)/!!✨🥂🕊✨🕊🍰
歌をプレゼントさせてください!(^^)!♬🎵
質問①
>>一つ目の質問は、 クリスチャンになっても、 神道を悔い改める必要はないのでしょうか。 また、お寺参りは神道に含まれますか? 神道を否定しなくてよいと聞くと 自分のルーツを否定しなくて済むので 嬉しい情報です!
私は今も神社を見かけたら、境内に入り拝み(=祈る)、神様に感謝します。
神社の神は聖書と同じ神なので拘ってません。
「神道と聖書の神は違う」 と頭ごなしに否定するキリスト教徒は、食わず嫌いなだけです。先入観を抱いている人は調べてみることもしません。
ヤマトという言葉ですが、ヤー(神の名)、マト(民)から構成されています。
古代、日本に失われた部族が来て神道を作りました。お神輿も❝契約の箱❞から来ています。❝三種の神器❞は、古来から日本にあるコトバです。
神道の中には、ユダヤ教と古代キリスト教の文化や教えが混じり合っています。
伊勢(イセ)は、預言者イザヤ or イサ・イーシャ(イエスの名)から派生しています。
アマテラス(アマテル)天照大神は、天・照らす神という意味ですが、旧約の時代、
ヤーウェはSolar God 太陽神とも捉えられていました。
新約で言うなら、この世を照らす世の光(ヨハネ1章)=イエスキリストになります。
人類の祖アブラハムの母の名はAmathlai (アマルテア)、父の名前は Terah(テラ)です。
アマテラスという呼び名の由来は アブラハムの両親の名から派生した可能性も大いにあります。
仏教に関しても、キリスト教と深く繋がっています。
しかし、私なら、あえて教会の人にはこういう話題はしません。頭ごなしに否定されたことがあります。神道や仏教を研究しているキリスト教徒でなければ、こういう話は理解されません。
キリスト教徒といっても、全く同じ価値観や考え方の人に出会うのは難しいです。もし、人に反対されても、神に直接、神の見解を尋ねてみて下さい。
神様は、スグ or 時が来ると必ず答えを下さいます。
私は、神様は他の宗教からでも、聖書やイエス・キリストに到着するよう橋渡しになる要素を、教義や文化の中に、残して下さっているのを感じます。
ヒンズー教の中には、イエスとよく似た要素のクリシュナ神を登場させて下さいました。ヴィシュナの8番目の神です。
イエス・キリストに個人的に出会えるかは、本人が心をオープンにして真理を求めるならば、他の宗教からでも到着する可能性はあると思います。
なぜなら、神は私たちの真理を求める声に応えて導いて下さいます。
「私は日本人だから仏教。キリスト教は外国の宗教だから興味ない。」などと国籍や文化背景を優先させ 頭ごなしに決めつけてしまうと、神からの示しが受け取れなくなります。
真理を求める場合、自分の想いや先入観を白紙にし、神に導きを完全に委ねる・尋ねることが必要です。
私がデコーディングするのも、偏見を抱いていないゆえ神様から示されます。
多くのクリスチャンは、神は聖書・祈り・他の信者を介してしか語られないと決め付けています。
「御言が与えられたら」「御言で示されたら」と、人間側で、神の行動を制約してしまう人が多々です。なぜ、毎回、「御言」に特化するのか不思議です。
神が遍在の方で、ロバを通してでも、何を通してでも示されるという意識を持ってないと、神が示されるのをブロックする信仰になります。限定された方法でしか語られないと決め込むと、自分の考えが頭の中だけでループするだけで、こじんまりした信仰になってしまいます。どういう方法で語られるかは、人間側ではなく、神がお決めになることです。 Let God Be God!
仏教についてですが、仏教を立て上げたのは釈迦(インドの金持ちの役人の息子)です。しかし、彼が仏教という宗教を立て上げたのではありません。
釈迦は仏教という新しい宗教を作ろうとしたのではなく、上から授かった平和の教え(哲学)を説きました。
彼の死後、弟子たち(代表的なのは10人の弟子)が、その平和の哲学を「仏教」という宗教として立て上げ、教えを付け足し発展させていきました。
クルアンもそうです。モハメッド1人が書いたのではなく、弟子たちが完成させました。
本来、釈迦は、仏教という宗教ではなく「道」を示していました。神道と同じです。
キリスト教徒の本来の意味は、「この道の者」です。「この道」とは「イエスの道」という意味です。イエスの道を歩む者という意味です。
考え方は似ていると感じます。
また、❝教義を否定❞というのは、律法では救われないとするキリスト教と同じです。
❝もろもろの事象は過ぎ去る❞は、伝道の書の教えにもあります。
上記仏教の教義をキリスト教と比較すると、説いてることは同じです。
①仏教の平等の思想
あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平に裁く方を父と呼んでいるからには、地上に宿っている間、おそれの心をもって過ごすべきである。ペテロ1: 17
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。ローマ3:22
ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。ローマ10:12
②仏教の迷信やドグマの否定
テラフィムは不法を語り、占い師は偽りを見る。夢見るものは意味のないことを語り、空しい慰めを与える。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ。ゼカリヤ10:2
おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。フィリピ2:4
子どもたちよ。 私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。Ⅰヨハネ3:18
※生き方の道(哲学)なので、仏教に神という名は登場しません。
④自己と法に基づくことを強調
この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。ヨシュア記 1:8
恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。ピリピ2:12-13
人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。Ⅰテモテ6:18
⑤釈迦「自分は神ではない」
※ 神は別にいる。
ところで、、、
ユダヤ教に「アミダ」という祈りの中心に関するワードがあります。「阿弥陀」如来の語源として関連があるのでは?と私は思いました。
以下、調べてみましたので、比較してみて下さい。もちろん、決定的な事は言えませんが、大日如来はイエスの再臨を示しており、
369という宇宙的な数字も関係し、弥勒菩薩はイエスが治める次の世を指し示しています。
また、ゲマトリアを調べていると、仏がイエスと同じゲマトリアを持っています。
仏教とユダヤ教には、輪廻、カルマ、倫理的行為、瞑想などの共通点があります。
この2つの宗教を比較して、数字に共通があるかも知れません。どう捉えるかは個人に任せます。興味深いので、取り上げてみました。
アミダは「立つ」という意味のヘブライ語で、アミダとは、立ったままでエルサレムに向かって唱えられる祈りです。別名シェモネ・エスレ(「十八」)とも呼ばれます。これは、もともと18の祝福からなっていたことに由来しますが、現在の平日のアミダは19の祝福からなります。アミダは、賛美の3つの段落、請願の13つの段落、感謝の3つの段落から構成されます。アミダは毎日3回、朝・昼・夜に唱えられます。安息日や祭日には、朝のトーラー朗読の後に第4のアミダが唱えられます。また、一年に一度だけ第5のアミダが唱えられます。これは、贖罪の日(ヨム・キプール)の日没前に行われます。したがって、ユダヤ教では、アミダを唱えることはラビ起源の戒めであるとされています。アミダを唱える際には、足をしっかりと揃えて立ち、エルサレムに向かって静かに祈ります。祈りが終わると、3歩後ろに下がってから3歩前に進みます。アミダは他の祈りと違って声を出して唱えないため、礼拝堂ではいつアミダを唱えているかがわかりやすくなっています。また、アミダでは4回お辞儀をします。最初と最後に2回ずつです。朝と昼(夜ではない)には、10人以上の成人男性が集まっている場合には、代表者がアミダをもう一度大声で唱えます。会衆は神の名前が出るたびに「彼は祝福され彼の名も祝福される」と応答し、各祝福の後に「アーメン」と応答します。一年中毎日3回祈る義務がありますが、アミダはユダヤ暦の特定の日に応じて変化しますが、常に最初と最後の3つの祝福は変わりません。アミダは、安息日や祭日には7つの祝福だけで構成されます。これらは、平日のアミダの中央の13の祝福に取って代わるものです。アミダは、ユダヤ教の礼拝で最も重要な祈りであると言えます。
>>18や19という数字は、阿弥陀如来の四十八願の中で特に重要な願いを表しています。四十八願とは、阿弥陀如来が法蔵菩薩として修行していた時に、衆生救済のために立てた誓願のことです。これらは四十八願と呼ばれ、仏教では特に浄土教系で重要視されます。その中で、第十八願は「南無阿弥陀仏」と称名念仏する者を極楽浄土に往生させることを誓った願いで、王本願や選択本願とも呼ばれます 四十八願とは、阿弥陀如来が法蔵菩薩として修行していた時に、衆生救済のために立てた誓願のことです。その中で、第十八願は「南無阿弥陀仏」と称名念仏する者を極楽浄土に往生させることを誓った願いで、王本願や選択本願とも呼ばれます。第十九願は、臨終の時に阿弥陀如来が観音菩薩や勢至菩薩などの聖衆と共に迎えに来てくださることを誓った願いです。第二十願は、三度生死を重ねる間に必ず阿弥陀如来の教えを聞いて信じることができるように誓った願いです。 これらの願いは、阿弥陀如来の大慈悲心と無量寿命・無量光明の威力によって成就されており、念仏する者は必ず極楽浄土に往生できるとされています。浄土教系の仏教では、特に第十八願を重要視し、他力本願に帰依することを説いています。阿弥陀如来は、すべての仏の先生であり根本仏であるとも言われています。
四十八願に関する儀式やしきたりとしては、以下のようなものがあります。
三回念仏:阿弥陀如来の名号を三回唱えることで、阿弥陀如来の本願に帰依することを示す行為です。三回念仏は、浄土宗や浄土真宗などの浄土教系の宗派で広く行われており、礼拝や法要などの始めや終わりに行われます 。三回念仏は、「南無阿弥陀仏」という一声を一息で唱えることが基本ですが、宗派によっては、「南無阿弥陀仏」と「南無不可思議光如来」とを交互に唱える場合もあります 。
三歩一礼:阿弥陀如来への信心と敬意を表すために、三歩歩いてから一回お辞儀をすることを繰り返す行為です。三歩一礼は、浄土宗や時宗などの浄土教系の宗派で行われており、阿弥陀如来の像や絵画などに向かって行われます 。三歩一礼は、「南無阿弥陀仏」と唱えながら行うことが多く、歩数や礼数に決まりはありませんが、通常は108回や1000回などの数を目標とします 。
これらの儀式やしきたりは、四十八願の中でも特に第十八願に基づいて行われており、念仏往生を願う者の信心表現となっています。
※48という数字は12の倍数です。
108は、ヘブライ語の単語「יהיה」(yihyeh)の文字の値の合計です。この語は「彼はなる」または「それはなる」という意味です。この語は神の名前「יהוה」(YHWH)と関連しています。これは「彼はいる」または「彼は存在させる」という意味です。一部資料によると、108は完成と成就の数字であり、神の名前の未来形を表していると言われています。 1000は、ヘブライ語の単語「קץ」(ketz)の文字の値の合計です。この語は「終わり」や「端」を意味します。この語は終末の日やメシア時代の文脈でよく使われます。一部資料によると、1000は完成と決着の数字であり、サイクルや期間の終わりを表していると言われています。 1000は、ヘブライ語の単語「תפילה」(tefillah)の文字の値の合計でもあります。この単語は「祈り」を意味します。この単語は神とつながり、自分の願いや欲求を表すという概念に関連しています。一部資料によると、1000は献身とコミュニケーションの数字であり、祈りの力を表していると言われています。 1000はさらに、10と100を掛けた結果でもあります。10と100はどちらもユダヤ教で重要な数字であり、それぞれ十セフィロト(神の属性)と毎日唱えるべき百の祝福を表しています。一部の資料によると、1000は完全と祝福の数字であり、これら二つの数字の組み合わせを表していると言われています。
長くなり過ぎたので、まとめます(^^;)
もちろん、仏教や神道をリスペクトしてよいのですが、しかし、どれを信じても良いという無責任なことは言いません。聖書には、救い(永遠の命) はイエス・キリストしかないと書かれています。
神様はイエス様に一切の権威を委ねられました。
○○教だから悔い改める必要があるのではなく、キリスト教徒であっても悔い改めが必要は常にあります。キリスト教徒であっても、本当にイエス様に繋がれているかが大事です。「まず、神の家から裁きが始まる」とあります。神様は、厳しいお方です。
キリスト教徒より、キリストの教え(神の御心)に適う生き方をしている仏教徒もいます。
ここにキリスト教にも仏教にもある「自分の救いを達成する」という教えの大事さに気付かされます。
まだ、イエス様に出会ってない人は、とにかく出会って欲しいです。
もし、生きているうちに出会えなかったとしても、死後、裁きの時はイエス様に出会います。その時、生きていた時の自分の行いについて言い開きをしなければなりません。
最終的な審判が下され、どこに送られるか決定します。
この世に生まれた来た人の中で、一人足りて、イエス様に出会わない人はいません。
少しの時間しか残されていません。だからこそ、生きている間に出会って欲しいです。
質問②
お知り合いの方がジーザスというあだ名を使うことについては、何とも判断が難しいですね・・・
なぜなら、日本で❝ジーザス❞と聞けばイエスキリストのことしか思い浮かびませんが、海外では頻繁に使われているファーストネームです。
日本語名のケンジ、タケシ、ヒロシなどと同じように頻繁に使われています。
もちろん、日本でジーザスというあだ名は目立ちます。
Jesusは、スペイン語圏ではヘスースになり男の子の名前として人気でよく使われます。
イタリア語圏ではジェスー。フランス語圏はジェズー。ドイツ語圏はイエーゾス/イエーゾ。ギリシア語圏はイエソウス。アルメニア語圏は
私個人としては、Jesusという名を使うのは畏れ多いと感じますが、人気なファーストネームであるのは確かです。
Jesusという名前だけでなく、聖書に登場する人物の名前は3大宗教の文化圏ではよく使われています。