先程のブログを書きながら、半分削除されました。
再度UPしましたが、神様から示されたことは他にもまだまだありますが、
情報をこれ以上紹介するのは難しいです。
本日、2025年が反キリストの復活の年であることを見事にデコーディングしていたブラザーがいました。来年は想像をはるかに超えた大変な一年になります。
特にアメリカはいくつかの都市(ここには書きません)に暴動が起きる可能性と、
また、頭部の致命傷の傷を受ける日付と街もデコーディングされてました。
もし、そのデコーディングが確かに神から来ているのであれば、2025年に必ず起きます。
どこが一番危ないとは言えませんが、どう考えても、アメリカとイスラエルが一番
危ないと思います。民の為に祈って欲しいです。
戦争は未だ各地で続いていますが、日々誰かが亡くなっていることを悲しく思います。
(先月、ロシア兵が投降している動画を見ましたが、戦争に巻き込まれた青年たちは
犠牲者です。)
異常な出来事やニュースを耳にしますが、悪い予言・預言は回避できるようです。
回避が可能であるため、あらかじめ起きることが告げられる可能性もあります。
ヨナ記もそれを教えています。
南海トラフなども、大勢の民の心や行いが神に向いた時、キャンセルされることも起きます。といっても、多くの人間の心次第で、決定されます。
(残念ながら反キリストが台頭することは回避できません。なぜなら未来に確実に起きることとして聖書に記されているからです)
日本はレプリコンの実験台になる国です。
それは、前回のワクチンの危険性を知っていても、周りの目を気にして危険な情報を
伝えなかった人も大勢いたため、同じテスト(度胸試し)が日本に再度まわって
来るのです。
(神様に日本が実験台になる理由を祈って尋ねた結果、このような想いが与えられました。)
伝えた人たちが多ければ、こんなテストは再度まわって来ませんでした。
神様のルールにおいては、蒔いたものを刈り取る(因果応報)という輪廻が人間界で
働いています。
今回も自分だけ、自分の家族だけ、他人がどうなろうが関係ないという事なかれ主義を通す人が多ければ、最悪なことが現実に起きるでしょう。
人の命よりも、周りの目やどう思われるかを気にしていては、神の国など入れないです。臆病な者は永遠の祝福は預かれない。聖霊を受けていれば尚更。
わたしは弱いから・・・というのは言い訳でしかないんです。
未だに、反キリストが誰なのかを知っていながら、頑張って他人に伝えないのが日本の
多くのキリスト教徒。見て見ぬふり。
臆病者でなければ何と呼ぶべきでしょうか?
礼拝、礼拝と、礼拝さえしていれば良いという洗脳されたガチガチ思考。
礼拝は良いこと、でも、それも儀式的な思考価値になりえます。
礼拝に通っているだけで、安心感や優越感を抱きやすく、自身の信仰がうまくいってると想い込みやすい。いわゆる教会教、でも本人は気付かない。
内輪だけで仲良く。外にはほとんど働きかけない。
海外の愛国教的なメガチャーチの牧師たちが、やたらリバイバルが来る!と強調してますが、終末だからリバイバルが起きるのが当然というのも変な話。
リバイバルも牡丹餅式には起こるわけないです。
待っているだけでは何も起こらない。
内輪だけ盛り上がっているだけでは何も起こらない。
宗派が違う場合、
「ここの教会員ではないから、コミュニオン(聖餐式)は受けないで」とお断りする教会も普通に存在しているのが日本。
プロテスタントはカトリック教会ではコミュニオンは受けれない。また、その反対も。
なぜ受けれないのでしょうか? お互いが、イエスキリストを救い主として信じているのに・・・!
結局、教会のプライドがそうさせているのです。
自分たちの組織に属してないから、という人間的な理由。感情的な理由。
神が願っていることを求めることよりも、まず「礼拝」「教会」「組織」「ルール」を優先しているのが日本の教会。
教会に行ってない信者のことを信仰が弱いと裁く。
その前に、何故、教会から離れてしまったかを考えてみたほうが良いんです。
礼拝とは、なんぞや?
1週間に一度二度、時間が来たら教会に仲間と集まって集会を持つことが礼拝ではなく、日々の想いや行動が礼拝であると私は悟ってます。
実際、2022年の正月(コロナ禍)、引っ越し後、❝年始の礼拝はどの教会に行くべきですか?❞と、神様に尋ねました。
以外にもこういう答えが戻ってきました。
「ホームレスの人たちのところに行って新年のあいさつをして話しかけ、食べ物や物資をシェアしなさい。それが私の望んでいる礼拝です。」と神様はおっしゃいました。
私は、ホームレスの人に話しかけ、毛布や食べ物や金銭を渡すことは昔からよくやっていたので、特別出来ないことではなかったのですが、
新年最初の礼拝を教会で持つことが一番最優先ではなかったというのが、
意外な展開でした。
それで、何日も続けて、食べ物やスナックを持って20人ぐらい寝泊まりしている場所に通いました。マフラーや履いてない靴下や洋服や本を持って行きました。
駅に通じる地下道だったので、空気の流れが悪くオシッコ臭かったので、初めは大変でしたが、徐々に慣れて行きました。もちろん、通りがかりの人たちからは、この人、ホームレスに話しかけて何してるの?という感じでジロジロ見られました。
その地域を仕切るチンピラみたいな人も近づいてきて、ホームレスに仕事の斡旋をしてるのではないか?と勘違いされました。
不思議なことに、この人と話をすることがキッカケで、結果的にホームレスのおじいさんのために、後日救急車を電話で呼んでもらえました。
ホームレスの人たちと話して感じ取ったことは、彼らは物をもらうことよりも、コミュニケーション(誰かと話をすること)を欲しているということでした。
仲良くなった後は経歴を聞くこともできました。様々な人生の背景と苦労話があり、
1人1人が個々の境遇を背負ってこられたのを知りました。
世捨て人みたいになった境遇の人たちは一見哀れに見えますが、
この世にポゼッションがない彼らのほうが、天国に入りやすいのだから、
幸運なんだと思います。
神様にあっては、人生のどんでん返しが、死後に起こります。
この世のルールや価値観とは全く違うんです。
土曜日は、カトリックのフィリピン女性たちと、どこかのプロテスタントの教会の女性たちが協力して、温かいスープとおにぎりとミカンを毎週配りに来られました。
宗派を超え協力し、炊き出しの配給に来られていることに感動しました。
イエス様は日々、教会の外の人を癒したり、食事を提供したり、まるでアクティビストのような生活をされていました。
礼拝堂にいて、礼拝、礼拝と、礼拝を強調し、礼拝さえ来ていれば神から信仰が認められる、というようなことは綺麗ごとです。
日本の教会は、主日礼拝を守ることをやたら強調し過ぎだと感じます。
私の中では、それが、イエス様のおっしゃっている一番の道ではないと思っています。
礼拝は、自分一人でも自宅でも持てます。
神様のことを想い、神様のために何かをすること。
それが礼拝です。
毎日が礼拝です。