ブログを書きながら、思い出したらムシャクシャすることがあります。
私の中にずっとある葛藤というか怒りがあります。
クリスチャンの人たちごめんなさい。
コンフェッションのように正直に書きます。
実は、時々、教会の人たちにイライラするんです。
もちろん、教会の人とは限らないんですが、
神が警告していることに対して、油断しすぎな人が多いのを感じます。
日本の教会信者は、自分の教会や牧師が教えてないことには全く耳を傾けない。
自分で考えない人が多い。
ワクチンを打つべきかどうか 牧師に相談する信徒もいましたが、そんなことは自分自身で調べ、考え、決断することです。
牧師は医者でもワクチン専門家でもないのに、あらゆる答えを求めるのは 依存しすぎ。
反キリストが既にいて、もうすぐ戻って来る!と伝えても、数字を見せても、信じない信徒たちが大勢います。
中には、終末時代が来ていることさえ、気付かない・信じない人たちもいます。
教会の人にでさえ、何を言っても見せても陰謀論だと思われます。
ネットの情報は嘘ばかりだからネットを見る必要はない、というクリスチャンが日本には多いことをつくづく感じます。
新聞テレビの情報が王道だと想い込むのは、真面目過ぎるからかも知れません💦
イルミナティという言葉さえ知らないから、ほとんど何も知らないのです。
仕方ないかもしれませんが、温室で育ちすぎに感じます・・・(-_-;)
昨年、ある教会にサマーキャンプに誘われたのですが、未信者の友人2人に、一緒に来ないか誘いました。誘ったので私の友人2人も参加するかもしれないと、県外の伝道師に伝えたら、許可なく誘ったことを問題にされました。
信者だけのキャンプだから、許可なしに勝手に誘わないで欲しいと。
未信者をキャンプに誘ってもよいかどうか、他の役員に相談するから、しばらく保留にしてほしいと言われました。
このキャンプはセミナーではなく、歌ったり、ゲームをしたり、バレーボールをしたり、森を散策したり、クラフトを作ったりするキャンプでした。
未信者を誘うことの何が問題なのか意味不明でした。
そして、こんなこともありました。
第三者に教会を紹介する場合も、牧師の許可が出ない前に、教会名を伝えないで欲しいと。
えっ、なぜ!?(*_*;
おかしな教会だと感じました。
また、他にもありました。
月に2回しか礼拝がないため、地元の信徒だけでも、カフェで月1回でも集まって一緒に聖書を読んで勉強しませんか?と、他の教会員2人に気軽に提案したことがありました。
すると、リーダーに相談する前に勝手に自分たちで提案してはいけないと、70代の女性
の信徒から言われました。早速、彼女は県外に住んでいる伝道師夫婦に、私から提案が来たと、告げ口しました。
伝道師から、❝先に自分に相談する前に提案するのは止めて下さい。単なる提案であっても、すべて自分を通してからにして欲しい。私が牧師に相談し、許可が出てから、私から皆さんに改めて話をするので。今後は、全てそうして下さい。❞と、注意されました。
たかが提案レベルです😓
皆で集まって勉強したいかどうか、集まることに興味があるかどうか、そういう時間があるかどうか、気軽に数人に尋ねてみただけです。
許可、許可、許可・・・
日本人だけですよ、こんな硬いシステムに縛られているの・・・
日本は、未だに、bureaucracyが 強い国だと言われていますが、ホントに硬すぎる💦
もし、この話を外人にでもしたなら、日本らしい!と大笑いされます。
欧米でなくても、東南アジアでさえ、ブレインストーミングのような会話が普通です。
日本人、空気を読みすぎ!😢
なるべく周りに合わすようにはしていますが、時々、息苦しくなります。
許可、許可、許可って、ホウレンソウであるまいし・・・
逐一、報告と許可・・・・
子供じゃあるまいし、ロボットでもあるまいし、
頭おかしいんじゃないか?
こういうシステムは先が続かないと思い、すぐにその教会に行くのを止めました。
私は、海外に住んだことがあるので、こういうがんじがらめにされるルールは
窒息しそうになります。
組織に入っていたら、また、そこが割と大きな組織だったら、特に神に護られているという思い込みから来る安心を得がちなんです。
だから、信者も右向け右をする。周りと同調することで更に属しているという安心感を得る。
憶えてますか? ❝従順❞という言葉は666が出ましたよね。人間に従順すぎることを神は忌み嫌われます。
なぜ、そこまでして許可を得たり段階を経ることが必要なのでしょうか?
イエス様にあっては、私たちは自由人だと聖書にあります。
イエス様と私たちの信仰の間に、組織や牧師(人間)のルールを挟み過ぎては、神により解放された霊でなく、人間的なルールが仕切ってしまうことに・・・
❝教会❞の意味を、団体(組織)だと思い込んでいる信者が多いです。
聖書が言う教会とは、建物や団体のことを指しているわけではなく、私たち1人1人が神の霊が住む神の宮(=教会)です。師はイエス様だけ。
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。
また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。
また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。マタイ23:8-10
温室育ちのキリスト教徒にありがちなんですが、キリスト教徒でない人が教会に突然来られたら恐いのです。
結局、構え過ぎなんです。未信者や他宗教を恐れすぎ。
同じ人間として接すれば良いのに、まず、思想や宗教の違いがあることに重点を置き、まず警戒心を抱き過ぎなんです。
なぜ、思想の違う人を怖がったり、警戒するのか?
それは、人種や文化や言葉が違う外国人を怖がるのと、よく似ています。
自分の知らないもの・違うものを異質に思う。よって怖がり必要以上に警戒する。
何か宗教を信じていて、他の宗教の信者をやたら恐れてしまうのなら、その人は、その宗教を止めた方がよいでしょうね。
もちろん、悪魔教などオカルト信仰は恐れるのは仕方ないかもしれませんが、仏教や神道やイスラム教などであっても恐れるクリスチャンが多い。
フォビアにかかる人は、信仰が間違った方向性に向かっているかも?
イエス様は違う宗教の人を恐れよ、というようなことを教えていません。
聖書には、❝善きサマリア人❞の話もあります。
イエス様は、取税人、らい病人、娼婦、異教徒、嫌われ者、世捨て人、犯罪人など様々な人々と親身になって接しました。
イエス様は、キリスト教徒を強硬に迫害していたパウロをわざわざ使徒に選ばれたほどです。
イエス様は宗教を完全に超越したお方です。
神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。
2テモテ 1:7
1ペテロ3:14に 恐れるな!とあります。
“Do not fear what they fear”
私が他の宗教の人と親しく交われるのは、人として接しているからです。
キリスト教の異端であっても、玄関で締め出したりしません。
仲良く話します。彼らの話を聞きます。悪意を持った質問をしません。
悪霊だとか思って接しません。
もちろん、露骨な悪魔崇拝の人は、ちょっと警戒するかもしれませんが、
話ぐらいなら聞くかもしれません?😓
教会も、組織という殻に閉じこもった思想ではなく、解放された教会を見つけるべきです。自分の意見を言うのに、空気を読まなければいけない教会はアウトです。
アーサー・ホーランドがお寺に招かれ、そこでも神の話をすると言ってましたが、
それこそ、とても健全だと思います。