チャクラのルーツは聖書

近年、❝チャクラ❞を意識しての瞑想が流行っています。特に、ヨガではこの言葉を使うのが流行っているようです。

ニューエイジ思想も、このチャクラの瞑想を取り入れており、日本でもチャクラを意識する瞑想方法についての情報がSNSで溢れています。

 

チャクラがどう説明されているのかを、私なりにまとめてみました:

瞑想によって現れる電子的な磁力が脊柱まで上がってきて、脳の松果体に影響を与え、脳の右半球を開き、神の意識を再現する効果があるという教えです。これには7つのチャクラと呼ばれるものが関係しています。非常に神秘的な言葉で、ギリシャ語ですが、実際にはそうではなく、今日の多くの人々にとってはヒンズー教を起源としています。 背骨の付け根から始まり、脊柱を上がり、松果体の位置する頭頂部まで、7つの神経中枢や心理的な車輪があります。

瞑想によるエネルギーは、釈迦が❝ニルヴァーナ(極楽)❞と呼び、イエスが❝神の国(天国)❞と呼んだ高いレベルの意識に到達するため、その7つの封印を開く必要があります。

7つのチャクラは車輪のようなものですが、これは心理的な車輪です。

さて、❝第三の目❞とも呼ばれるチャクラ、松果体に、光(悟し、覚醒)を与えるチャクラ思想ですが、

この考え方のルーツはどこから来たのでしょうか?

 

 

 

 

ずばり、聖書です。

 

松果体」は英語で「Pineral Gland」 と呼ばれます。

このPineral の語源は、スペルは違いますが聖書にあります。

意味は「神の顔」です。顔と言えば、松果体は顔の一番上部に位置します。


旧約聖書で、神(or 天使)がヤコブと取っ組み合い力を試された場所の名は、ペヌエル (Peniel → Pineral)でした。ヤコブが神と面と向かって

出会った祝福の場所でした。

 

 

 

聖書には、霊の目を持って、目を見開くようにと様々な箇所で言及されていますが、

以下に一例をあげます。

 

❝目に光(ともしび)を持つよう❞にと書かれています。

 

目に見えること(肉眼の眼)だけで理解するのではなく、霊の眼(魂)によって物事を理解することの大事さが語られています。

 

このように、ヤコブが神と出会った場所(ペヌエル)が、❝松果体❞の呼び名のルーツです。❝祝福された場所でヤコブが神と出会った❞ というののは、❝松果体に光がともされる(悟りが与える)❞という概念に発展したのです。

また、聖書にある、肉眼の眼ではなく、❝心の目を開く❞というのが、❝第三の目(The Third Eye)❞を開く、という概念に発展したのです。

 

ヒンズー、仏教、道教などの彫刻には、額にポッチリを見かけますが、これがアジュナやチャクラのシンボルであるのが判ります。第三の眼としてオカルト的にみなせば気持ち悪く捉えることも出来ますが、もともとは、聖書がルーツであり❝霊の眼を開く❞という意味から来ているのだと感じます。

 

最近、思ったのですが、ヒンズーの神々には、聖書の神と悪魔の役の両方が、神々として存在する概念もあるのではないか?とも考えはじめました。

たとえば、ヒンズー教ではシバ神は破壊の神です。そして、一番人気の神はクリシュナ(≒ヴィシュヌ神)。この神は不思議にもイエスとの類似性が多々あります。

 

この女性は、自国でキリスト教に失望し、一旦、無神論者になったのですが、クリシュナ教に出会いイエスキリストを心から信じることに至りました。

全員ではありませんが、クリシュナを熱心に信仰するヒンズー教徒にはイエスキリストを同時に信仰する人も多くいます。


もしかすると、神様は、こういう形を通して、別宗教においてもイエス様と出会う道を用意された可能性がないにしもあらずでは??と考え始めました。

実際、調べて行くと、ユダヤ教ヒンズー教の思想的・文化的な類似性も見つかっています。まず、牛を崇拝することが頭に過ぎります(調べてみるとハマります)。

 

こういうことを書き出したら、一般のキリスト教徒やヒンズー教徒からブーイング👎を受けそうですが、神様のなさることは私たちの狭い考えを遥かに超越しておられるので、可能性はないとは言えません。

もちろん、断定は出来ませんが、大いにありえるのではないかと感じています。

エス様は宗教の枠を選ばれない全人類の救い主です。

 



クリシュナとイエスがよく頻繁に対比されるのも、半端なく似ているからです。

初めは模倣?と思ったのですが、そんな単純なことではない気がしています。

ヒンズー教の中でもクリシュナ神を特に大事にする宗派の人たちは、イエスキリストに友好的な人がいます。


 

ただ、イエスとクリシュナには大きな違いがあります・・・

クリシュナが人類の罪のために犠牲になった話が存在していない点です。

この救いのコアな部分が、クリシュナ教に存在しないのは残念です💦

 

世界の宗教の全てが、善行、訓練(修行)、信仰による救いを説きます。

ですので、神が人類の身代わりになって代価を払って下さったという罪のあがないの理解は、イエスキリストの教え以外、他のどの宗教にもありません。

 

善行も信仰も訓練も大事ですが、信仰をしばらくやっていると「愛」にはとうてい

かなわないことが解っていきます。

 

どんなに自覚しても、善行や信仰や訓練よりも、愛を実践するのが一番難しい。

何年経っても自分ではなかなか愛は実践できない。

愛、犠牲を伴う愛を 十字架上で人類に示して下さったイエス様。

エス様の愛と、神様の偉大さは、文字では表現できないです。

 

 

 

最後に、またまた チャクラの話に戻ります・・・(^^;)

 

私は、チャクラや瞑想をすることには反対しませんが、

チャクラや松果体などをピンポイントで意識して瞑想する効果ってあるのでしょうか?

 

神様は、霊の目を開くために、一言「聖霊を受けよ」とだけ仰いました。

聖霊を受ける方法は、「イエスキリストが自分の罪のために身代わりとなり十字架にかかって下さった。イエスが自分の救い主である」ということを信じるだけです。

 

❝霊の眼を開くために、座禅を組んで、瞑想し、7番目の頭のてっぺんまで順番に電気を送り込み、1つずつチャクラを開いて行く❞というような拘りは必要あるのでしょうか?

神様は 方法ではなく私たちの心を見られます。形から入ったからと言って、神に出会えるものではありません。

エネルギーが何番目のチャクラを流れた、松果体まで送ったなど、たとえ意識したとしても、今、エネルギーがどこを走っているかなど判りっこありません。

チャクラが開いたのか、流れたのか、滞っているかなど、とうてい判りえません。

 

もし、ハイアー・セルフ(Higher Self )を求めるのであれば、

神様を意識して生活する・神様に感謝して生活するだけで十分です。

徐々に心の目(霊の目)が開かれて行きます。神様の想いが解ってきます。神様と親密になれます。

 

私は、座禅しなくても、チャクラを開かなくても、常に神様がそこにいるように心の中で会話しています。些細な疑問も含め子供心であれこれ尋ねています。

神様に尋ねても答えなんて来るわけない、などと先入観を持ちません。

だから、不思議な答えが早いうちに示されます。

 

謙虚になり自然体のまま神様の前に出れば良いだけです。

聖霊(神の霊)は、私たちがイエス様を受け入れた時、心の中に常にお住まいになられます。