新約聖書の中に、ある神様からの訓戒があります。
この箇所の教えの本質を理解していないキリスト教徒を時々見かけます。
まず、長いですが、ローマ書9~11章を読んでみて下さい。
ここに書かれていることを要約すると・・・
キリスト教徒は、イエスキリストが真の神であるということを知っていたとしても、それをまだ知らないでいるユダヤ教徒をリスペクトしなさいということです。
なぜなら、彼らは、神による、もともとの選びの民だからです。
異邦人たちは、イエスキリスト(新約)を信じることにより、大きな幹に接ぎ木された
立場です。要するに、異邦人はキリストを信じたゆえ、養子として、神の家系(ユダヤの家系)に迎え入れられた、ということになります。
なぜ異邦人が接ぎ木され、「救い(永遠の命の約束)」が異邦人に移ったのか?
もともとの選民(ユダヤ人)は聖書をよく読んでいましたが、神がイエスの身体となって、この世に来られた時、イエスが神から送られた御子であることを見別けることが出来ませんでした。ユダヤ教徒は、神が人間の肉体を持って、この世に来ることは無理だと考えています。
自分の民のところに来たが、民は自分が誰であるのか見抜けなかった。
しかし、神は、その「救い」の祝福を無駄にせず、代わりに異邦人に与えました。御自身を信じた異邦人を養子とした(=接ぎ木した)のです。
ルカ書に、宴会に大勢の知人を招いたのに、結局、宴会に来たのは 見知らぬ人たちであったという話と似ています。顔見知りの招待客のほとんどは宴会に現れなかったのです。逆に、宴会に行って良い想いをした人たちは、宴会に行きたい!とスグ反応した人たち、主催者の善意を疑うことなく素直に宴会に出向いて行った人たちです。
そして、この話には、もう1つ深い点があります。
ユダヤ人たちが、イエスが神御自身であることを見抜けなかったのは、彼らの心が頑なだったのもあります。しかし、それだけではないのです。
神は異邦人をも愛していた故、異邦人にも救いの手を差しのべられました。これも神の計画でした。そのため、神は、新約の時代、イエスとなり この世に来られ、イエスを信じることにより、異邦人を 神の家族となれるよう養子として接ぎ木したのです。
また、ユダヤ人たちに、神を熱心に信じるキリスト教徒の信仰に妬みを持たせることによって、ユダヤ人たちに信仰心をいつまでも維持させるという計画もありました。
そして、ここがポイントなのですが、
ユダヤ人たちが頑なであったのは100%ユダヤ人たちのせいではなく、神が
彼らの心の幾分かを頑なになさったこともあります。パーセンテージでは正確には表せませんが、頑なになった原因の30~50%(?)ぐらいは神が故意にそうなさったのです。
選民の心を頑なにした理由は、救いの門戸を異邦人にも開くためです。
神は、世界の人々を愛しておられ、1人でも多くの者が 永遠の命の祝福に預かれることを望んでおられます。そのため、2000年前、イエスキリストとなり、全人類の救い主として人間世界に降りて来られました。
神が「イエスキリスト」というカードを使われたのは、
選民だけの救いに限らない、世界人類を救済するオールマイティな必殺カードだからです。世界を救うため、特別な手段を用いられました。
未だ、異邦人の救いの扉は開いています。
といっても、異邦人に救いが与えられている期間には期限があり、近付いています。
最後の異邦人が救われた時、「異邦人の救いの扉」が閉められます。
その後、「救い」は、もともとの選民であるユダヤ人たちに戻ります。そして、神の救いの計画の最後のハイライトとして、多くのユダヤ人たちがイエスキリストを信じることになります。そう預言されています。
神のもともとの計画は、選民を救うことでした。しかし、異邦人を接ぎ木するため、選民をしばらくの間、頑なになさいました。
もともとの選民が忘れられたワケではなく、神の計画において、最後にようやく、選民へと救いの祝福が復帰します。この最後の選民がレムナントたちです。
ですので、ユダヤ人たちがイエス様を現時点で受け入れないのは、神の計画が幾分か関与しています。ローマ書11章には、イエスを信じていないからといって、ユダヤ人たちに対して上から目線になってはいけないことが書かれています。なぜなら、彼らは正妻の子供 (血統の子供) たちであり、接ぎ木ではなく、木の幹から直接伸びた枝の立場なのです。
また、ユダヤ人の聖書(旧約聖書)には、「イエス」という名が1度も登場しません(旧約は紀元前に書かれたので、もちろん、イエス様は未だ生まれていません)。
理由はどうであれ、「イエス」という名前が載ってないということは、彼らがイエスを信じることは難しいということです。新約聖書にイエスという名が載っていたとしても、イエスを信じることは普通に難しいです。なぜなら、目に見えない存在を信じるということ自体、誰にとっても とても難しいことです。
それであれば、旧約聖書しか持っていないユダヤ人がイエスを信じることは当然に難しいのです。
こういうことを配慮する必要があります。
だから、ユダヤ人がイエスをののしることに対して対抗するクリスチャンがいますが、
ののしったとしても、それは仕方がないと考えるべきです。
彼らが信じないからと、彼らの信仰を批判したり、彼らの信仰を頭ごなしにバッシングしてはいけないということです。
反キリストが現われ迫害が起こらない限り、ユダヤ人に限らずイエスを信じる人たちは起きません。誰もがそうです。キリスト教徒もイスラム教徒でさえも、物に溢れ、平和で苦労がない状況下では、真剣に神に助けを求める人は少ないというのが現実です。
誰も反キリストに台頭して欲しくありません。
しかし、神が反キリストの台頭を許可されるのは、人類の多くが神を無視し続け、物質的な幸せだけを求め、人間中心で物事を進化させる願望が止まないからです。人間の欲には歯止めがかかりません。ロボットやAl に支配されてしまうという近未来の状況も招いています。メタバース、ムーンショット計画などもその1つです。
恐ろしい未来ですが、反キリストの統治3.5年を乗り越えない限り、真の平和の世界が到来しません。
信じるか信じないかは自由です。
私は、2025年、この年のどこかで大艱難時代(3.5年)が開始することを伝えて来ました。反キリストが7年条約を締結しない限り、艱難時代(7年)が始まらないという
ディスペンセーションの教えは間違って聖書を解釈しています。
艱難時代7年は既に始まっています。次に来るのは後半の大艱難時代です。
気を引き締めていてください。
そして、一日も早くイエス様を御自身の救い主として信じることが出来ますよう。
不信仰になり、ふり返ったり後戻りすることがないように。
命をかけても、獣の印を受けることのないように。
【追記】
ユダヤ教・イスラム教には「三位一体」という概念が存在しないことについて:
「神は人間となってこの世に降りて来れない。神は霊の方であるゆえ、❝人であるイエス=神 (or 神の御子)❞という理解は間違いであるゆえ、三位一体は成立しない。」というのが彼らの概念です。イスラム教では、イエスは神ではなく預言者どまりです。イエス以上にモハメッドが偉大な預言者として扱われています。ユダヤ教では、イエスは、ペテン師・カルト教祖、若しくは、存在しなかった人物、として見なされています。
彼らは、霊の存在である神が人間の身体に入れない、と信じる反面、同じく霊の存在である天使・堕天使・悪霊たちが人間の身体に入れることは信じています。
神が全能の方であるなら人になることも可能であると考えるべきなのですが、
❝ユダヤ・イスラム教では、神が神になることを止めて人になるということはありえない。❞という考えを持っています。
なんだか解る気もするのですが、神が三位一体であるというのは、別に神を止めるワケではないのです。
三位一体で解りやすいのは、「水」が、液体から気体になったり固体になったりするという原理が一番解りやすい例です。液体・気体・個体とフォーム(形)は違っても、同じ「水」が形を変えただけです。「神」「御子」「聖霊」です。「3」という数字は、聖書の中で「神」の象徴として存在します。
私が常に引用する例ですが、アリに何かを伝えるためには、アリとなってアリの世界に行き、アリの言葉でしゃべらない限り、アリには通じないのと同じです。
単純な説明ですが、これが一番解りやすいと思います。
神様も人となり、人間の世界に来て下さいました。そして、人間は本来、どのように生きるべきなのか、約3年間、人々に教えられました。イエス様の言葉や教えが新約聖書に詰め込まれています。