私のキリスト教信仰

以前から気になっていたので、今回、これを書いておきます。

 

まず、お伝えしておくことは、

私は、ディスペンセーション主義でもキリスト教シオニストでもありません。

厳密に言うなら、私は思想的なシオニストかもしれません。でも、政治的なシオニストではありません。

どういうことかと言えば・・・

ユダヤ人が約束の地に戻ったことは神の導きであり預言の成就だと信じています。

しかし、その後、パレスチナ人が追い出され、また、お互いが激しく戦争をはじめました。この部分は、神様の方法ではなく政治的な思惑と介入だと思っています。

それまでは、お互いに相容れない違いなど様々な問題はありながらも、それでも、どうにか共存する道を探していました。インターマリッジもありました。

しかし、残念ながら、 争い・戦争へと発展しました。

 

 


私のキリスト教の根本価値は 反戦思想です。

トルストイキルケゴールガンジー、プリモ・レヴィ、バートランド・ラッセルジェーン・フォンダなどの反戦哲学に賛同しています。

ロシア・ウクライナについても、どちら側も支持/応援していません。指導者たちの覇権争いのため両国民が巻き込まれて被害を受けている大迷惑な戦争だとみなしています。

人間、一線を越えると、あとは殺しあいしか残っていません。

神様が創られた尊い命を、憎しみという感情にかられた人間たちが自分たちの手で抹消するのです。恐ろしいことです。

 

日本にも、○○戦争の前後、一気に大量の移民が出稼ぎを含め不法入国し、一旦、本国に強制送還したものの家族まで呼び入れ戻って来る事態がありました。統計によると昭和初期には既に42万人が同化しています。しかし、その後、日本もその国を一旦併合し同化させようとしたのだから、どちらが一方的に悪いとは言えません。

どちらにも言い分があり理解出来ない事はありませんが、どちらも悪いとも言えます。

 

最終的には、人間は、どんな状況・立場であっても、神の前に心は丸裸にされます。

憎しみ・いがみ・殺し合うのか? それとも、自分なりに平和に向かうよう憎しみを捨てるのか?という選択を迫られます。

人生は魂のテストです。私たち1人1人の心が、何にどこに拠り所を置いているのか、私たちの心の中心部分にあるものが、所有物なのか?国なのか?分け前なのか?平和なのか?愛なのか?

まことに この神様は個人個人の心の中を ご覧になっておられます。

死後、裁きがあり、神の前に1人1人が言い開きをさせられます。

その時、「でも、あの人たちが・・・」という言い訳は通用しません。

全て、神の言(聖書)が基準となり裁かれます。

神御自身が言(the Word = 聖書)だからです。

 

 

 

 

 

 

神が与えて下さったものは、国であっても、自分のものではないのです。

私たちはこの世の寄留者であって、イエス様が到来された後は、人種も宗教も肌の色も言語の違いも存在しない神の国の国民へとなる特権が与えられます。

この世のことに執着し過ぎないよう、自我や貪欲をなるべく避ける必要があります。

魂が聖別されるため準備をしない限り、神の国への選別から漏れます。

なぜなら、神様は神様の存在を信じているだけの偽善者は選ばれません。

 

最終的に誰を選ぶのかは神次第ですが、私たちの前向きな心構えや姿勢が判断重視となります。

正しいことをやりたい神様に従いたいというのを強制ではなく、そうしたくなるよう自然に助けて下さるのは聖霊のワザです。真面目でヨイ子ちゃんになるため頑張るという人間のモラル観念から出ているのではなく、神の霊が助けて下さるので次第に罪を犯せなくなるよう内側から変えられて行きます。

悪い仲間や友人もおり一緒に罪にまみれている自分はとうてい無理だと思う方もいるかもしれません。でも、聖霊という最強の助っ人がいます。自力で頑張らなくて良いのです。

もちろん、その場で抵抗して行く忍耐も必要ですが、時には、神に示されたのであれば、自分から、悪循環・アンヘルシーな環境から離れる必要もあります。卑屈な人の周りにいると自分自身も卑屈になります。常にゴシップ・悪口が好きな人といれば、自分もゴシップすることが当たり前となる可能性もあります。常に恋愛脳の話をする人がいれば、人生の目的がまるで男女のかけひき・恋愛・結婚だけが全てであるかのような錯覚が伝染してきます。

 

神様の一番の目的は、私たちをイエス・キリストに似た者に変えることです。

はい、信じたからオッケーではありません。

エスに似た者へと変わらない場合、いくら熱心に聖書を読んでも祈っても教会に通っても奉仕をしても他人を救いに導いても、それらは肉の努力をしているだけであって、神様からみると宗教活動に励んでいるだけです。

 

いつも言いますが、自分の救いの達成とは、教会活動に熱心になることではなく、イエスに似た者と変えられていくことです。

 

どんなに頭が来ることがあっても、イジメ・差別・暴力という線を越してはなりません。一度越すと、なかなか取り返しがつかない状況になります。

そういうことを生み出さないためにも、日頃から差別やヘイトを煽らないよう、個人個人が気をつけるのです。

 

 

ユダヤ教イスラム教を上から目線で批判する一部キリスト教徒たちを時々見かけます。

しかし、新約聖書には、どう書いているのでしょうか?

新約聖書の教えの中においても、たとえイエスを信じていないユダヤ教徒であっても、

彼らを上から目線で扱ってはいけないようハッキリ教えられています。

 

「えっ、どこどこ?」

と思ったあなたは、新約聖書をじっくり読めていません。

大事なポイントを見逃しています。

 

新約聖書が、ユダヤ教徒に闘いを挑んでいる書として勘違いして理解するクリスチャンを時々見かけます。

しかし、神のユダヤ人に対する想いと約束は旧約・新約を通して一貫してぶれません。

勘違いしている人は、神の壮大な計画を理解することなく、聖書をドグマ的な理解でもって人生を追えるのでしょうか?

 

エゼキエルの預言が成就したからこそ民が帰還したのです。預言の成就は神のワザです。

レムナントの数は限られているので全員がレムナントではないですが、レムナントが確かに帰還しています。

 

一般のユダヤ教徒を ❝偽ユダヤ❞だとして呼んでる人は要注意です。その身に神の怒りを受けないためにも差別は止めたほうがよいです⚠

 

聖書は、アメリカ人、ヨーロッパ人、日本人的な観点で読んではダメです ✖

へブル的な観点で読むと理解がスムーズです。

新約聖書もへブル人によって書かれました。

 

今回限りでは不十分なので、この話を新約聖書を用いて 解説します。