❝モーセ五書の規定を守りなさい❞とキリストは教えてはいない

モーセ五書を守るように教えるキリスト教徒がいます。別に守ることは悪い事ではないですが、守り出すことに気を配り始めたらキリがない。

モーセ五書にはレビ記も含まれてるのですから、食物規定を含め、レビ記文化を持っていないジェンタイルがそれら規定を守ることはとうてい無理です。

例えば、肉料理と牛乳は一緒に摂れないというのもあります。

 

昔、ベニスのユダヤ人コミュニティのレストランで食事しましたが、コーヒーにミルクを付けてもらえませんでした。No, Noは判りましたが、店員さんの説明がイタリア語だったので、当時は、理由が判りませんでした。

後、知ったのですが、肉料理の食後にコーヒーを飲む時、コーヒーにミルクをいれてはならない。これが出エジプト記の規定にあります。

Milk and meat in Jewish law - Wikipedia

 

また、新約聖書でも、パウロが教会はこうあるべきだと細かな理想を掲げています。

でも、それは理想であって目標であって、それに到達するのは大変難しい。

また、❝女性が教会で語ってはいけない❞というのなら、女性牧師はアウトになりますが、イエス様の想いを考えると、そんなことは問題にはなりません。

 

聖書に書かれている習慣や掟の全て守るのは大変難しい。

ハッキリ言って無理。

 

では、何を優先して守ればよいのか?どの掟を守ればよいのか?

 

 

簡単です。

儀式や規定を守ることを目指すのではなく、善良(良心)とモラルを優先します。

基本は、十戒を守ることです。神から人類に与えられたモーセ十戒のことです。

細かな律法の規定を守ることを重視し始めるとキリストの教えからブレて行きます。

十戒を守るように努めることで充分。神様は律法を守っているかどうかを採点されるのではなく、私たちが自分なりに努めたかどうか、私たちの心に関心をお持ちです。

神御自身が、ユダヤ人となってこの世に来られました。イエス様は自分の民をとても愛しておられました。 多くの律法規定に縛られて生きることから解放させたいと願っておられました。

 

人には十戒を守ることさえ難しいことを、神様はよくご存知です。

十戒だけではおおまか過ぎる、もっと細かな規定を守るべきだと考えるキリスト教徒も時々みかけますが、十戒は律法の全てを網羅します。

十戒以外の細かな規定を守ることに執着するなら、キリストの贖いが無駄になります。

新約聖書をじっくり読めば律法重視に走ることがキリストの教えからブレていることがよく判ります。

 

神との親密さが増し加わるほど、神様が定めた神の掟(十戒)を自然に守りたくなります。恋人に心配かけたり失望させたくないという想いに似ています。

人間は、十戒を守ることさえ完璧に出来ません。

ただ、神様の助けを期待しながら自分で自覚することにより、少しずつ前進できます。 

十戒を守ろうとするなら、心の平安が与えられ解放されてゆきます。直感や知恵が与えられます。正しいことをしようとするなら結果的によい方向に導かれます。

 

第1戒 あなたはわたし以外に、ほかの神があってはならない。出エジプト記20:3)
第2戒 あなたは自分のために、偶像を造ってはならない。出エジプト記20:4)
第3戒 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに口にしてはならない。出エジプト記20:7)
第4戒 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。出エジプト記20:8)※礼拝曜日の拘りを重視する必要はないです(本来は土曜日)。教会は人が出入りする建物(church building)ではないので、礼拝場所も関係ない。教会ではなく自宅で礼拝しても構わないということです。神様は儀式ではなく心をご覧になる方です。
第5戒 あなたの父と母を敬え。出エジプト記20:12)
第6戒 殺してはならない。出エジプト記20:13)
第7戒 姦淫してはならない。出エジプト記20:14)
第8戒 盗んではならない。出エジプト記20:15)
第9戒 あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。出エジプト記20:16)
第10戒  あなたの隣人の家を欲してはならない。出エジプト記20:17)

 

 

聖餐式を守ることが大事なのではなく、

食べ物を日々与えて下さる神、十字架にかかって下さったイエス様を常に想い出し、感謝するのが本当の聖餐です。儀式である❝聖餐式❞という儀式を定期的に行いなさい、というのが神様のポイントではありません。衣食住が与えられていることについて、常日頃から感謝することです。

毎週日曜に教会に礼拝出席することが必須ではなく、

日々神を感じ感謝して生活することが真の礼拝です。いくら礼拝を守っても信仰が育たない人も多々います。毎週、礼拝に通ってさえすれば信仰が育っているという錯覚を抱きがちです。礼拝出席がルーチン化するだけの受け身の信仰となります。

律法の根本は儀式ではなく精神だということを忘れ、安息日を形式的に守っていれば礼拝を捧げていると安堵していけません。

教会に十一献金をすることを優先するのではなく、

目の前にいるお腹を空かして困窮したホームレスの方を助けるほうが緊急性があります。社会的弱者や困っている人々には無関心なのに、礼拝に出席し教会に献金を捧げさえすれば神様に仕えていると想い込み満足している人はパリサイ人的な信仰です。

水の洗礼さえ受ければ信仰的に大丈夫というのではなく、

聖霊による洗礼❞が本当の力を受けます。もちろん、水の洗礼を受ける決断は神に歓ばれますが、水の洗礼後に、偶像崇拝をする人や神から離れてしまう人は大勢います。

聖霊の洗礼は、自分の決断で受けれる者ではなく、神様が決断してお与えになります。

❝神様の働きのためという動機❞のもと、熱心に求める者には❝聖霊による洗礼❞が与えられます。そのためには、聖霊の洗礼を、聖霊の洗礼を既に受けた者に、とりなして祈ってもらうことをお勧めします。